COLUMN

【カルト映画研究会:第五回】断絶(Two-Lane Blacktop)

2020.07.13

石川 俊樹石川 俊樹

アメリカ映画に見る若者と車の切っても切れない関係

冒頭シーンは公道で行われている賭けレース。真っ暗な郊外の道路に集まる若者たち。速そうなマッスルカーが集う中登場する地味な1955年型シボレーだが、そのエキゾーストサウンドからバキバキに改造されていることが窺える。運転するのはジェームズ・テイラー扮するドライバー。淡々とした中にも不遜な自信が窺える表情。シグナルブルーで派手なマッスルカーを僅差で抜き去るも、会場に迫るパトカーのサイレンに散り散りに逃げ出す参加者達……。

今は若者の車離れと言われて久しい。移動手段、輸送手段と割り切れば車はただの道具だし速さや馬力もそのためのスペックという事になるだろう。

 

20世紀初頭からモータリゼーションが興った広大な国土を持つアメリカでは車は早くから道具の概念を越えて「スピード」と「パワー」で精神的充足感を与える装置となった。ジョージ・ルーカス監督『アメリカン・グラフィティ』(1973)で描かれた1962年の青春ドラマではナンパやレース、カーラジオのネットワークなど、若者と車の関係がすでに切っても切れない結び付きでドラマの重要な要素となっている。

 

だが同時に車は内省的な個室空間でもあり、思春期においては車の「スピード」と「パワー」がそのまま若者に肉体の延長としての幻想を与える一方で、それが幻想であるがゆえの孤独と焦燥を轍に残す。

 

今回取り上げるモンテ・ヘルマン監督『断絶』はまさにそういう映画だ。(あらすじはないに等しい)

底に透けて見える断絶と孤独

この映画は1970年代アメリカのベトナム戦争に対する不信感から生まれたカウンターカルチャーの影響下で作られたアメリカン・ニューシネマの一本である。

 

主な出演者はたったの4人。フォークシンガーのジェームズ・テイラー、ビーチ・ボーイズのデニス・ウィルソンという当時若者に人気のミュージシャン2人を主役に起用、中年代表としてはサム・ペキンパー作品で有名なウォーレン・オーツ、紅一点に新人でヒッピーガールのローリー・バード、ちょい役でまだ無名時代のハリー・ディーン・スタントン(『パリ・テキサス』)も出ている。

主役の二人はチューンアップした55年型シボレーで賭けレースをして旅しており、ひょんな事で70年型ポンティアックで旅するウォーレン・オーツ扮する中年に絡まれレースをする流れになるのだが、もちろん『ワイルド・スピード』のようなアツイ展開になるハズもなく(笑)、それどころかレース自体もうやむやになるほどストーリーが存在しない。一応ロードムービーではあるが、旅に目的があるわけでもなく、主役の2人(「ドライバー」と「メカニック」。この映画のキャラクターは全て名前がない)は暴力的なほど会話がなく、劇中のキャラクターはみんなまともな意思の疎通をしない。

 

まるで感情を伝える術を失ったかのような3人の男達は車を意思疎通の装置としてたわいのない意地の張り合いをするが、その底に透けて見えるのがそれぞれが抱える断絶と孤独である。特にウォーレン・オーツ演じるGTOはペラペラとよく喋りながら全く内容のない嘘の身の上話をし、拠り所を初めから持たないシボレーの若者達と違って、中年の実存的危機を抱えた落伍者であり虚偽のプライドにすがって生きる前世代の価値観を引きずっている。この映画はそんな人間達に「マッスルカー」や「ヒッチハイカーの若くて魅力的な娘(「ガール」)」という要素をストーリーに盛り込みながら、期待されるようなドラマをことごとく避けて展開する。

 

ホットロッドやマッスルカーを所有する無邪気な興奮や喜びはとうの昔に消費して、それでもすでにそこにアイデンティティを投影しなければならないほど、他人や人生に関心を持てない人たち。その歪なコミュニケーションの無残な様は「ドラマ」という人生の醍醐味を得ることができない人たちの物語でもある。

人と人が分かり合うフリをして生まれる幻想としてのドラマ

現代にあふれるドラマはこれでもかと泣き、笑い、愛し合う。人生に退屈な瞬間などないと言わんばかりにイベントを繋ぎ合わせ、まるで感情のジェットコースターように忙しい。そんな「ドラマ」に中毒している我々はちょっとした空白の時間も埋めようとスマホをチェックしゲームで退屈をドラマで塗り潰そうとする。

 

「ドラマ」を失いルーティンのように賭けレースを繰り返す、「ドラマ」にすがり虚偽の身の上を語り幻想の中の人生に生きようとするこの映画の人々を観ている時なんとなく落ち着かない気分になるのは、そこに現代に生きる自分の姿を客観的に見ているからなのではないだろうか。

 

この映画は僕に「そんな風に都合よくドラマは生まれないし、そもそもドラマなんてものは人と人が分かり合うフリをして生まれる幻想なのだ」と諭す。

 

ドラマ的な決着を得ることもなく漂流し続ける孤独な人間の魂はマッスルカーのエンジン音の中に言葉にならない咆哮を託し続けているのかもしれない。

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