COLUMN

俺の人生、三種の神器 -丹七海 ①西尾維新編-

2020.04.06

丹 七海丹 七海

▼俺の人生、三種の神器とは?
人生の転換期には、必ず何かしらきっかけとなる「人・もの・こと」があるはずです。そのきっかけって、その当時は気づけないけれども、振り返ると「あれが転機だった!」といったことはありませんか?そんな人生の転機についてアンテナ編集部で考えてみることにしました。それがこの「俺の人生、三種の神器」。
折角なのでもっとアンテナ編集部員ひとりひとりのことを知ってもらいたい!そんな気持ちも込めたコラムです。これから編集部員が毎週月曜日に当番制でコラムを更新していきます。どうぞお楽しみに!

小学生の頃から本が好きで、剣が交わり魔法が飛び交い、少年少女が血と汗と涙を流すような物語が好きだった。当時の私はきっと、紙と文字の向こうに広がる無限の世界に恋焦がれていたんだろう。中学生になると、作家たちの世界を享受するにとどまらず、自身の手で紡ぐようになる。そこに音楽が混ざり今に至るのだが、その話はまた今度。「三種の神器」1つ目は、私が文字を書き始めたきっかけの話。

前書き、或いはすべてのはじまり

私が通っていた中学校の図書室は、人も少なく静かで学生生活に寄り添うものとしてそばにあった、私にとっての安息地。小学校の図書室とは比べ物にならない圧倒的な質と量を備えた空間に、本が好きだった私は毎日のように入り浸っていた。小難しいタイトルの新書や鈍器みたいに分厚いハードブック、教科書で習っただけの近代文学。目移りしてしまうラインナップに目を輝かせていたある日のこと、ふと1冊の本が目に留まった。

手に取ったのは西尾維新の『クビキリサイクル』。思い返しても、どうしてこの本を手に取ったのか思い出せない。もしかすると、表紙に描かれた青い髪の少女に惹かれたのかもしれない。

青春は過ぎ去り、されども

適当に曖昧で機械的な有耶無耶が、凡庸なくらいに何事もなく、不自然なほど空疎な確実さを伴って、さながらあやふやで真っ赤なおとぎ話のように終わっていく。

(クビキリサイクル / 西尾維新 / 講談社 / 2002年 / P.379)

 

身体が震える。否、身体が震えすらもしない。戦慄すらもしない。恐怖すらもしない。動揺も錯乱も怯怕もしない。酷く冷静だ。酷く冷静であることを強いられている。

(サイコロジカル(上) 兎吊木核輔の戯言殺し / 西尾維新 / 講談社 / 2002年 / P.215)

彼が紡ぐ独特な言葉遣いにツボを射抜かれた私は、「こんな文章を書きたい!」とノートに書き殴るようになった。この年代の、多くの少年少女が通る道ではないだろうか。暇な時間を見つけてはノートに文字を書き続けるうち、1つの目標を打ち立てることになる。それは、「ボールペンのインクを使い切ること」。家の道具箱に眠っていた1本のボールペンを相棒と決め、目標に向かって突き進んだ。下校するや否や、ずっと机に向かうこともしばしば。背中だけ見れば勉強している風に見えたらしく、両親から何事かと覗かれることもなかった。今にして思うと、気づいていたのかもしれない。そのうち、サラッと「あんたが昔使ってたノートさぁ……」なんて言われるかもしれない。その場合私は死ぬ、羞恥で。

 

高校に上がると、ノートからワードに移行した。日々思いついたことや、見に行った映画やライブ、読書の感想を書き続けた。“ネタ”と名づけられたワードファイルの容量は1.1MB、文字数にして592,340字。大学に入学してレポートに追われ就活に苦しもうとも、ついぞ書くことをやめられなかった。アンテナに入ってから、度々「どうして文章を書きたいのか」を自問自答している。たどり着く答えはいつも同じ。私はただ、文字を書く行為そのものが好きなのだ。

やがて辿り着いた場所

文字を書くという支流と、カルチャーが好きという支流。この2つが合流して大きな本流になって、ライターとしての自分がいる。どちらかが欠けていれば、私は間違いなくアンテナにいない。ここで文字を紡ぐ私が存在するのは、西尾維新に触れてこそ。ライターはそう簡単に西尾文法を使える立場にはないけれど、彼の言い回しや言葉遣いは確かに自分の根本にある。私の記事を読んだあなたが「ん?」と引っかかる文章があれば、きっとそれは、私の奥深くに根を張って離れない、西尾維新の残り香だ。

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