COLUMN

ブンガクの小窓 第十三章 -退屈-

2017.09.20

ケガニケガニ

どういうときに使うか

退屈だ。現在時刻は19時20分。当コラムの原稿を仕上げるべくスターバックスでコーヒーを飲みながら、パソコンの画面に向かっている。日本語の「退屈」という言葉はもともと仏教用語で、仏門の修行僧が修行をする気力がなくなってしまうことを言うそうだ。「何もやることがない」状態を指すというよりも、「気力がなくなる」ことを指す言葉である。今の精神状態も、どちらかといえば後者である。

 

何かわけのわからない「ブンガク」なるもののイメージを、少しでも見えるようにできればと思って始めた当コラムも先月で一年続いたことになる。毎度自分の中にくすぶっていた言葉を、洗濯物のようにきちんと天日干しして、折り目をつけて畳み、適切な引出しにしまう作業は、控えめに言ってとても楽しい。読者からのリアクションはともかく、これからも末長く書いていきたいと思う。毎月ネタを探してメモを取ったりすることが自分のルーティンのひとつになっている。

 

しかし、だからといっていつも筆が進むというわけではない。「退屈」という言葉の面白さは重々承知しているが、そんなことわざわざ言われなくったってと思う人たちもたくさんいるだろう。読者に読まれてナンボのWebコラムだ。このテーマ自体が間違っているのではないかと考えあぐねながら書くこの文章自体が、やはり退屈な調子になってきた気さえする。

「退屈」は不必要?

冗談はさておき、「退屈」という状態は、ヴェブレン(1857-1929)という経済学者によって批判にさらされたことがある。ヴェブレンは言う。まともな人間なら仕事に精を出すべきだ。退屈だなんて言っている暇はない。退屈をもてあますなんて悪しきブルジョワジーの姿だ、と。

ダーウィンの進化論に影響を受けつつ書いた『有閑階級の理論』でヴェブレンは、未来に向かって進んでいく人間のあるべき姿について議論した。皆が幸福になるためには、虐げられている貧しい人々がたくさんいる状況を改善することが必要だ。だとすると、そのために働くわけでもなく、暇を持て余して遊びに興じているブルジョワジーを、「人間の堕落」であると痛烈に批判したわけだ。「スポーツ」だって例外ではない。彼の手にかかれば、興奮状態を利用して偽の満足を与えるものだというのである。

強烈な主張だ。これに対して反論したのが、アドルノ(1903-1969)という哲学者である。ある論文の中で彼は、むしろ「退屈」は人間性の本質にあるのではないかと説いた。人類全体の利益のような「大いなる目的」のために各個人がパーツとなって働くのがいい社会だとすると、それは完全に管理された全体主義国家になってしまう。退屈だろうがなんだろうが、個人の生そのものにまず価値を置くべきなんじゃないのか、というわけである。

 

暇と退屈の倫理学

退屈な人生を楽しむ

夢も定職も持たずブラブラしている人を見つけると、しっかりしろよと言いたくなってしまう(筆者もそう言われたことがある)。大きな目的のために頑張っているひとはキラキラして見えるというのも事実だ。

しかし、何も意味のない時間や行為そのものが、時として人生の豊かさにつながることがある。社員の余暇活動が充実している企業では、むしろ労働時間が長い企業よりも生産性が高いのはよく知られている。戦後日本でも使われるようになった、「レジャー」という語の価値はいまだ高まる一方だ。歯車がうまく回るためには「遊び」の空間が必要だが、このことは人間にも当てはまるのだ。

そもそも人生に積極的に意味を見出すべきなのかどうかが疑問だ。誰かが与えてくれる意味なんて大抵たいしたもんじゃない。自殺願望をもつ人たちの多くが、社会から求められていない「意味のない」人生を悲観しているそうだが、別に意味のない人生だっていいじゃない、と彼らに言いたい。そんなものなくたって楽しく幸せに生きていける。退屈退屈、と言いながらこうしてコーヒーでも飲もう、と。

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