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ブンガクの小窓 第八章 -散文-

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第八章を迎えました「ブンガクの小窓」、今回は「散文」です。

なんとなく使っているこの言葉、どういう意味なのでしょうか。

いつもの解説といっしょに物書きの端くれとして物申したいこともあります。

 

 

 

どういうときに使うか

 

 

散文、という言葉で思い出すのは中学3年生のころだ。

 

ザ・ハイロウズの「青春」という曲がリリースされ、ちょうど青春だった僕には刺さりまくった。あとで知ることになるこの曲の作詞者は、真島昌利。「俺の死を死にたい」、「青空」、「1000のバイオリン」などの名曲の作詞・作曲で知られる、通称「マーシー」。だが、このときの僕はまだエレキギターも触ったことがないし、ロックバンドを生で見たことがなかった。知っているのはラジオで流れている音楽だけ。

 

 

 

 

 

そんなときに聞いたこの曲は、なんというか、象徴的だった。男子校で中高一貫校、中3の思い出といえばテニス部での汗みどろの筋トレばかりだ。この曲から流れてくるすがすがしい反骨精神とは違って、マンネリ化した学生生活への怠惰な順応だけが日々を覆っていた。ちょっと大げさに言えば、ショックだったのだ。音楽との出会い、恋愛の予感、青々とした暴力。こうしたすべての「自分と遠いもの」が、生々しいリズムに乗って直感的に歌われている。ドストエフスキーやディケンズを愛読していた根暗な僕は、音楽を通して文学を感じた初めての瞬間だったのかもしれない。「青春」は、短い言葉で、学生時代を客観視する冷めた目線そのものを表現しているように思えた。

 

 

 

 

さて、そんな「青春」の中にこんな歌詞がある。「音楽室のピアノでブギー/ジェリー・リースタイル/骨身をさらけ出したその後で/散文的に笑う」。散文的に笑う、という言葉。最初のサビのクライマックスという一番の聞かせどころでこの言葉を持ってくるセンスに今でも脱帽する。そもそもブギ・スタイルのロックピアニスト、ジェリー・リー・ルイスを知るのはもっと後なのだけれど、それよりもこのたった数行の歌詞で学校という枠組みから鮮やかに逸脱したロックンロールの姿を描き出しているということに、胸をつかまれたような思いだった。

 

 

 

散文と韻文

 

 

さて、当時はこの「散文的に」笑う、ということが何を意味しているのかは理解していなかった。「文学的に」くらいの意味かと思っていたのだがそうではなかったのだ。今回は「散文」の意味として二つの答えを用意している。それは「①普通の文章」と「②自由な文章」である。どういうことだろうか。

 

 

 

 

基本的に散文とは、「韻文」の対義語である。

 

韻文とはいわゆる「詩」や「俳句」などの、韻律をもった文のこと。つまりリズムや押韻などの言葉遊びをもった文章のことだ。それに対し、小説やエッセイ、さらには論説のような普通の文章のことを散文という。ここをもって「①普通の文章」、というわけだ。

 

要するに詩ではない文章を指すのだから、転じて「詩情に乏しい文章」のことを言うこともある。たとえば「君の文章は散文だ」と言えば、平坦でつまらないという意味になるというわけだ。とすれば、これを先ほどの歌詞に当てはめると、味気ない笑いを笑う、ということになる。だがマーシーが意図したのは本当にそういうことなのだろうか。

 

 

 

散文は自由だ

 

 

散文とは韻文の対義語だと言った。だとすればそれは同時に、韻律というルールを持たない文章のことでもある。「散」という漢字にはそもそも「とりとめがない」という意味がある。つまり、形式を持たずまとまらない文章のことを散文というわけだ。

ここから、ルールに縛られず自由に書いたもの、という意味が生まれる。中国、4世紀ごろの六朝文化において、韻文と区別して生まれたこの散文という語は、あらゆる詩以外の形式の文章を指していた。ここから近代における小説などの文学を指すようになる。そして詩の方もだんだんと形式がわずらわしくなり、むしろ「自由律」とか「散文詩」という自由な作風が生まれたわけだ。ここに至って散文と詩とは垣根がなくなる。形式をもたない自由な文学のことを散文と呼ぶようになったのだ。

 

 

 

 

もうお分かりだろう。僕は「青春」の散文的をこのように理解している。つまりマーシーが散文的と表現したのは、ロックンロールの逸脱そのものだと思うのだ。

 

 

 

不自由な散文

 

 

散文は自由だし、何を書いてもいいはずだ。しかし現実はそうなっていない。決まりきった文体や、仲間内だけで通じる合言葉だけで身内ネタを繰り広げる文章ばかり目にしてしまう。文学作品に触れる機会はどんどん減り、言葉の体力がぐんぐん削られていっているように思う。これは難しい言葉を知らないといけないということではなくて、自由に筆をすすめるためには抜け出すべき形式を知っておくべきだということだ。

 

このことは、このコラムを書き始めたきっかけの一つでもある。おせっかいかもしれないけれど、ライターやミュージシャンに、ありきたりな言葉で作品を生み出してほしくないと思った。これは自分への戒めでもある。死ぬまでにできるだけ面白い文章を書きたいし、読みたいと思う。そうした文を前にしてああこれはすごい、と思った瞬間に僕はもちろん、散文的に笑うのだ。

 

Illust by 高石瑞希

 

Relaxin’ WITH THE HIGH-LOWS

 

 

今までのブンガク語

 

第一回:不条理

http://kyoto-antenna.com/column/bungaku_vol1/

第二回:実存

http://kyoto-antenna.com/column/bungaku_vol2/

第三回:虚構

http://kyoto-antenna.com/column/bungaku_vol3/

第四回:ルサンチマン

http://kyoto-antenna.com/column/bungaku_vol4/

第五回:ユートピア

http://kyoto-antenna.com/column/bungaku_vol5/

第六回:アイデンティティ

http://kyoto-antenna.com/column/bungaku_vol6/

第七回:刹那

http://kyoto-antenna.com/column/bungaku_vol7/

 

この記事を書いた人

ケガニ
ケガニ
神戸の片隅で育った根暗な文学青年が、大学を期に京都に出奔。
アルコールと音楽と出会ったせいで、人生が波乱の展開を見せている。
9月からフランス・パリ在住。

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