COLUMN

川端安里人のシネマジプシー vol.17『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』

2017.08.23

川端 安里人川端 安里人

追悼ジョージ・A・ロメロ監督と『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』

 

先月7月16日、世界中にあるニュースが駆け巡った。“ジョージ・A・ロメロ監督77歳で死去”。世界中の監督やホラー作家たちが哀悼の意を述べ、ホラーファンはその損失の大きさと、二度とロメロ監督の新作を見ることができないんだと打ちひしがれた。

 

かくいう自分も大学の卒業論文にロメロを選ぶほど彼の作品と功績に心酔する身として、正直なところしばらくは何も手をつけることができなかった。

 

そこで今回は追悼ジョージ・A・ロメロ監督としてこの文章をしたためることにする。と言っても、ここまで偉大な監督のことなので「正直そんなこと知ってるよ」と言われてしまいそうだが、できることなら「ホラー映画なんて見ないよ!」という人にこそロメロ監督のことを知って欲しかったりする。だからこのアンテナというホラー要素の少ないサイトはかえってうってつけなのかもしれない…

 

 

 

 

すっかり世界に広まったゾンビたち

 

早速本題に入ろう。ロメロ監督の功績、それは“ゾンビ”という概念を作り上げ、世界に広めたことだ。昨年実写映画化され話題を呼んだ漫画『アイアムアヒーロー』、ハリウッドで映画シリーズ化もした人気ゲームシリーズ『バイオハザード』、現時点で第7シーズンまで作られ、日本にも根強いファンのいるドラマ『ウォーキング・デッド』。これらの名前を挙げるまでもなく、日々制作されるホラー映画をはじめ、数多くの作品にわらわらとひしめき合う蘇った死人ゾンビたち。その全ての源流に存在する映画こそ、ロメロ監督の1968年作『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』だ。一応補足しておくと“ゾンビ”と呼ばれるものは西アフリカやハイチ共和国のブードゥー教における奴隷的存在の蘇った死人として存在していた。

 

 

 

 

1930年代には『恐怖城 ホワイトゾンビ』や『私はゾンビと歩いた』と言った“ブードゥーゾンビ”映画は存在していたが、そう言った映画では恐怖の対象はゾンビたちというよりも彼らを蘇らせ操る魔術師の方に向いていた。ロメロ監督はそう言った異文化の異形的存在にアメリカのSF作家リチャード・マシスンの『アイ・アム・レジェンド』に登場する吸血鬼のパターンを合わせ、頭部を破壊されるまでノロノロと徘徊し、人に食らいつき感染によって次々と仲間を増やしていき、緩やかだが確実に我々の文明を崩壊へ導く蘇った死人“ゾンビ”という存在に変換した。

 

『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』制作から50年近く経つわけだがその構成は今観ても非常に力強いものがある。墓参りに来た兄妹がゾンビに襲われ、妹だけが命からがら付近の一軒家に避難するまでが開始約10分で、そこからは合間合間にショックシーンを挟みながらの籠城者同士の確執の物語になる。舞台を一箇所に限定するという低予算映画の鑑のような作りながら、リアリズムに富んだ生存者たちの心理戦やエゴイスティックな行動で観客を飽きさせない工夫がいくつも張り巡らされている。

 

 

昨日までコミュニケーションが取れていた人間が、突如対話不能に陥る恐怖

 

ロメロ監督の映画ではよく言及されることで、パニック自体はゾンビが引き起こすものだが、物語においての脅威は実は生存者たち自身に潜むエゴや暴力性だということだ。

 

『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』においても家に籠城するものたちはやがて一人づつエゴや身勝手な行動によって自滅していくことになり、物語の後半ではゾンビ狩りを楽しむ民兵たちの姿が暴力的に描かれ、やがてそれらが一つになり伝説のラストへと繋がっていく。初見には衝撃的すぎるラストシーンについてはニューヨーク近代美術館にフィルムが永久保存されるような名作なので、できることなら自分の目で見て欲しい。

 

だが、ロメロ監督はただただ奇をてらったり、今でいう炎上商法のために衝撃的なラストにしたわけではない。それはゾンビを通して俯瞰的に社会を見つめる社会批判性の賜物である。この映画が制作された60年代後半のアメリカに目を向けると、例えばベトナム戦争では言葉も通じない神出鬼没のベトナム兵にアメリカ軍は疲弊していた。一方本土では反戦運動が活発化しヒッピーたちはコミューンを作り抗議活動のために路上で寝転がって動こうとしなかったり、あるいは暴徒と化した学生運動化たちと軍部が衝突を繰り返している。南部の方ではキング牧師が公民権運動や南部での黒人への選挙権を正当化させるために数百人規模での行進を繰り返し、セルマでの血の日曜日事件に代表されるような白人至上主義団体は彼らを人と扱わずリンチを繰り返していた(ちなみにこの事件を扱った『グローリー / 明日への行進』という映画は当時の社会背景を知るのにもってこいな1本です)。

 

 

 

 

ロメロは決してベトコンだとかヒッピーだと言ったわかりやすい存在をゾンビに当てはめたわけではなく、対話不可能な集団への無意識的な恐怖そのものを映画に当てはめたのだ。以前は兄弟だったり同僚だったり友人だったりした人が、戦争や政治性、宗教観と言ったことである日突然対話が成り立たない集団の一部になってしまう。それによって他の人間関係にも亀裂が入る。そう言ったことが日常茶飯事だった激動の時代をゾンビを通して戯画化したのだ。だからこそパニックの原因はゾンビであってもキャラクターへの脅威は人間自身だったりするストーリテリングを多用した。

 

ロメロ監督自身はインタビューなどでそう言った社会的な見方に対してはにかみながら「考えすぎだよ」と言いながらも、「この映画の完成フィルムを運んでいるときにキング牧師暗殺のニュースを聞いたな」ぁとしみじみ語っていた。この映画を見た人なら嫌でもカリスマ性のある黒人の死ということを想起せずにはいられないだろう。ロメロという人はそう言った社会のベクトルへの嗅覚が非常に優れた作家なのだ。

 

 

様々な社会を映すゾンビというメッセージ

 

78年の『ゾンビ』ではショッピングモールに籠城する主人公たちとそこに集まってくるゾンビたちを描きつつも、今や当たり前の光景になってしまった地方の巨大ショッピングモールを通じて大量消費社会の終末観を描いていた。無人のショッピングモールで服やスポーツ用品を好きなだけ漁って勝手に使って謳歌する主人公たち。ホラー映画史上屈指の最高に楽しいシーンだが、そのシーンを楽しんだり羨望したりする観客自身を逆説的に「君もここに群がるゾンビの一員だよ」と諭すわけだ。

 

 

21世紀に入っても富を牛耳る1%をゾンビ的に揶揄した『ランド・オブ・ザ・デッド』なんかはどう考えてもゾンビ=ブルーカラーへの応援歌的内容だし、世間では駄作扱いされているらしい『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』なんかは、メキシカンマフィアやイスラム過激派などの虐殺映像がインターネット内に存在する今こそそのメッセージ性を発揮していると言っていいだろう。血の涙を流すゾンビを写したこのラストほど強烈で辛辣なメッセージを人類に投げかける映画を自分は知らない。こう考えるとロメロという監督はホラーというジャンルでは普段大きな声で言えないような、言い表せないようなメッセージをオブラートに包んで大声で言える最適なメディアだと発見した一人だと言える。

 

あぁロメロ監督、だからこそあなたの新作を、これからの社会へのメッセージをもっともっと観たかった。

 

 

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