COLUMN

ブンガクの小窓 第九章 -ノマド-

2017.05.21

ケガニケガニ

 

今回はちょっと不思議な言葉、「ノマド」を扱います。

現代のビジネス用語?いえいえ、この語は人類史と深くかかわっているのです。

 

 

 

どういうときに使うか

 

 

近年よく「ノマドワーカー」という語を目にすることがある。

 

IT革命という語すら古臭く聞こえる昨今では、オフィスの場所を固定してそこに通うといった仕事の仕方が見直され、デスクワークを外で行う人が増えてきた。仕事内容のほとんどがネット環境さえあれば事足りる職種ならば、ノートパソコンを開きさえすればそこが簡易的なオフィスになるということだ。上司の目にさらされ同僚たちと肩を並べる職場に閉じ込められる必要なんてない。単純に効率だけを求めるならば在宅だったり、スターバックスだったりと、自分の一番仕事しやすい環境に身を置けばよいのだ。人と会う必要すらないならば、服だってスーツでなくていいし、時間だって気にせずにいつでもどこでも仕事をしたり、しなかったりできる。

 

近年では、こうした固定的なオフィスを持たないでどこでも仕事できる人のことを「ノマド」ないし「ノマドワーカー」と呼んでいる。

 

 

 

 

僕自身、いっときIT関係の雑用みたいなアルバイトをしていたことがあるのだが、仕事のほとんどが「タスク制」で、出来高みたいな給与体系になっていたのを思い出す。勤務地もネット環境さえあればよく、毎回ではないけれど家やカフェなんかでバイトしたこともあった。そんなときにはコーヒーをすすりながら、子供のころに思い描いていた未来ってこんな感じかあ、と素人っぽい感想をもったものだった。一人モニターを相手に仕事をし、終わればメールで勤務終了の連絡を送信する。単純明快な作業だった。もちろん人間関係もないわけではなくて、そのせいで、あとで書くけれど、のちのち会社は大変なことになった。

 

僕の話はさておいても、この記事を読んでいる人だってスクリーンないしモニターを通しているわけだし、こうした実体を持たないような内容の価値がどんどん膨らんでいる昨今では、ノマド的な働き方は広がる一方だろうと思う。けれど、僕は少し疑問を抱いている。このノマドという語を口をそろえて褒めそやすというのは違うんじゃないかと。

 

 

 

遊牧民

 

 

さて、ノマドとは本来は「遊牧民」を指す語である。

もともとはギリシャ語のネメインnémeinという「(牧草地を)割り当てる」「分配する」という意味の語に由来するのだけれど、元の語から二つの全く反対の意味が派生した。

 

 

①きっちりと区画し、土地を割り当てるということの規則を表す。「法」、「法則」。
②「牧草地」。そしてそこから転じて、牧草地をめぐる「遊牧民」。

 

 

①はきちんと場所を区切るということだが、②は割り当てられた場所をこえて、移住していく人々のことである。今回扱うノマドのような②の用法は、少なくとも16世紀のラテン語に遡ることができるが、もちろんそれ以前にもこうした場所にとらわれない暮らし方はあった。人類が牧畜を始めたころから、「ノマド」たちはすでに存在していたのだ。

 

 

 

 

 

根拠のない暮らしとしての遊牧

 

 

このノマドという語に目を付けたのがフランスの哲学者ジル・ドゥルーズである。彼はノマドの暮らし方を用いて、「場所・法・根拠から離れてどんどん変化し続けていくこと」を考えた。

 

彼がこの言葉を用いた1970年ごろのフランスには、「根拠づけることによって、言葉の権威づけが行われるような学問」だったり、「ある価値観のもとに全ての人間が統治・支配されるような国」だったり、「理性や正しさによって自分の生・行動・芸術を縛り付けること」を問題にしよう、という考え方があった。ドゥルーズも「ノマド」という語で同じことを考えていた。こうやって物事を一つの場所や規定に固定してしまうことからいったん離れて考えてみよう、と提案したのだ。


 

 

千のプラトー 上 資本主義と分裂症

 

 

(ドゥルーズはすでに『アンチ・オイディプス』という著作でもこの語を用いてるのだが、今回どちらかと言えば読みやすい、『千のプラトー』をおすすめしておこう)

 

人間だってそうで、別に自分はこういう人だと定義したりされたりしなくたっていいし、どんどん変化していく中でかえって自分について何かがわかってきたりすることもあるだろう。

 

 

 

不自由なノマド

 

 

しかし、固定しないで物事を考えるなんて、本当に可能なのだろうか。確かにノマドは自由に場所を変えて遊牧をし続ける人々を指すが、彼らが真の意味で自由だったのかはよくわからない。なぜって、結局彼らは遊牧というスタイルにしがみついてしか生きることができないかもしれないからだ。つまり、ノマドであり続けるということ自体が、一つの「定住」なのではないかということだ。

 

ドゥルーズもずっとノマドでいなさいよ、と言ったわけではなかった。むしろノマドというのは定住への問題提起だった。もともと区画整理というものは、なんの境界線もない豊かに広がる牧草地の上になされたものだし、線を越えたり書き直したりできるんじゃないかということを主張したのだ。

 

現代の「ノマド」にだって同じことが言えるかもしれない。ノマドであり続けるためには仕事をしなければならない。いくらスターバックスに逃げ込もうと、仕事自体からは逃れていないし、むしろ職場を離れたら仕事が終わり、という今までのスタイルとは違ってどこにいても終わることなく仕事ができてしまうのだ。もっと言えば、結局それは出勤していついつまで働いていましたよ、という言い訳ができない分もっとシビアに一つ一つの働きの質や量が求められるだろうから、仕事という法にがんじがらめにされていると感じていてもおかしくはない。もちろんそれをもって、やりがいのある仕事だと感じる人もいると思うが、僕が言いたいのは場所が変わったからといって根本的に自由に仕事ができるというわけではないということだ。

 

 

 

 

ちなみに僕が働いていたIT関係の会社も、僕が辞めた後に風の便りで聞いたところによれば、経営が悪化した時に社長がだれも信用できなくなって事業の大半をたたんだそうな。彼はお金とデータだけしか見えなくなったんだ、と当時のことを知る友人は言っていた。そう、ノマドといえば個人行動のように思えるが、僕はそこで友人と呼べるような同僚もできたのだった。その時のことをふと思い出す。あのころ彼と店を転々としながら――ノマド的に――酒を飲んでいたとき、確かに僕たちは自由だと感じていたのかと。

 

illustration by 高石瑞希

 

 

 

今までのブンガク語

 

第一回:不条理

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第二回:実存

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第三回:虚構

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第四回:ルサンチマン

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第五回:ユートピア

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第六回:アイデンティティ

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第七回:刹那

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第八回:散文

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